今日の勉強会のテーマは、「身体拘束の排除の取り組み」でした。
身体拘束の定義については、ニッケ・ケアサービスとして共通学習を行ってきたことですので、ほとんどの職員が知識としては頭に入っていることだとは思いますが、これをどうやって無くしていくのか?限りなくゼロにしていくためには?ということの議論を交わすという時間はあまりありません。
身体拘束の定義については、ニッケ・ケアサービスとして共通学習を行ってきたことですので、ほとんどの職員が知識としては頭に入っていることだとは思いますが、これをどうやって無くしていくのか?限りなくゼロにしていくためには?ということの議論を交わすという時間はあまりありません。
あくまで、どういうことが身体拘束で、どういうことが高齢者虐待にあたるのか?というのは、知識として吸収しているだけだからです。
「頭でわかって、心でわかっていない」というのが現実だと思います。
これは、我々に限らずすべての介護に携わる人々の共通認識です。
身体拘束が相手の自由を奪うことであり、それは相手の意欲、目的、生きる気力を奪うことに繋がる。
それは感情も失い、やがては廃人に近づくこと。
認知症の方であれば、認知症の進行に繋がります。
本人の思いは関係なく、身体拘束は行われます。
なぜ行われるのか?
それは介護する側のエゴが多分に影響しています。
家族介護であれ、施設介護であれ、忙しくて転びそうになる、ベッドから落ちる高齢者を転ばないように、ベッドから落ちないように四点柵をする、車いすに縛り付ける等々。
「それが家族の希望だから身体拘束をしていい」というケースもあります。
「転ばれて病院へ連れて行くのは大変だから縛ってほしい」と平気で言われる介護者もいます。
「本人が転ぶことの方が不幸でしょ?」という正論のように聞こえる屁理屈もこの業界には口にする介護職だっています。
全てはエゴなんです。そして、それは家族や介護施設関係なく、「介護力の無さ」から生まれるということ。
身体拘束→高齢者虐待につながる「芽」はこういったところにあるという理解・知識は、こういった議論から生まれます。
なぜ行われるのか?
それは介護する側のエゴが多分に影響しています。
家族介護であれ、施設介護であれ、忙しくて転びそうになる、ベッドから落ちる高齢者を転ばないように、ベッドから落ちないように四点柵をする、車いすに縛り付ける等々。
「それが家族の希望だから身体拘束をしていい」というケースもあります。
「転ばれて病院へ連れて行くのは大変だから縛ってほしい」と平気で言われる介護者もいます。
「本人が転ぶことの方が不幸でしょ?」という正論のように聞こえる屁理屈もこの業界には口にする介護職だっています。
全てはエゴなんです。そして、それは家族や介護施設関係なく、「介護力の無さ」から生まれるということ。
身体拘束→高齢者虐待につながる「芽」はこういったところにあるという理解・知識は、こういった議論から生まれます。
しかし、身体拘束ゼロをめざす環境作りのために必要なことは、理解・知識だけではありません。
それに加えて、根本になくてはならないものは、「心」そのもの。
相手に対する思いやり、尊重が「本人の思い」を汲み取る気持ちになり、それが行動となって現れます。
本人への関心が、周辺環境の分析を行ってなんとかしていこう、今の自分たちにできることはなんだろう?という思考につながります。
ここではじめて、ケアや生活環境の調整を考えることになります。
具体的に、その人への介護には人手が不可欠ですが、ただ人手が潤っているだけでは目的は果たせません。
チームワーク、統制が取れたケアを行う必要があります。それにはチーム力を養うことが必要。
チームワーク、リーダーシップの教育です。
そこではじめて、身体拘束や高齢者虐待に関する知識が活きてくることになります。
もちろん、介護を行う自分たちの心にゆとりがなければ、知識を活かすことはできません。
ゆとりがない現状が身体拘束を生んでしまうのです。
ゆとりを生みだすためには、潤沢したマンパワー、統率力のとれたチーム、知識と経験が必要となってくる…。
こう振り返ると、身体拘束をゼロに無くすためには、「人間としての心」が前提としてなければなりません。
しかも、「本人の思いを尊重」するという心なんです。
「エゴ」も人間の心の一つですが、相手を尊重しているわけではありませんよね?
例として
・重度の糖尿病だけど、好きなものを食べ続けたいという本人の思い
・何よりも本人の命が大切だから、好きなものを食べ続けさせるのはいけないこと
相反する思いが交差することで、身体拘束しなければいけない事態が生じることになります。
ここにあるのは、「人の命」と「人の思い」どっちが大切なの?という究極の天秤なんです。
これを決められるのは、他人ではない本人そのものです。重度の認知症の方や寝たきりの方には
それを決めることができないため、家族の思いが優先させることになるのですが、余命が短い方で、家族の希望として延命を望まないというケースがあります。
これは、「本人ならそう選択するはず」という、本人への思いを尊重しているからなんですよね。
本人への関心が、周辺環境の分析を行ってなんとかしていこう、今の自分たちにできることはなんだろう?という思考につながります。
ここではじめて、ケアや生活環境の調整を考えることになります。
具体的に、その人への介護には人手が不可欠ですが、ただ人手が潤っているだけでは目的は果たせません。
チームワーク、統制が取れたケアを行う必要があります。それにはチーム力を養うことが必要。
チームワーク、リーダーシップの教育です。
そこではじめて、身体拘束や高齢者虐待に関する知識が活きてくることになります。
もちろん、介護を行う自分たちの心にゆとりがなければ、知識を活かすことはできません。
ゆとりがない現状が身体拘束を生んでしまうのです。
ゆとりを生みだすためには、潤沢したマンパワー、統率力のとれたチーム、知識と経験が必要となってくる…。
こう振り返ると、身体拘束をゼロに無くすためには、「人間としての心」が前提としてなければなりません。
しかも、「本人の思いを尊重」するという心なんです。
「エゴ」も人間の心の一つですが、相手を尊重しているわけではありませんよね?
例として
・重度の糖尿病だけど、好きなものを食べ続けたいという本人の思い
・何よりも本人の命が大切だから、好きなものを食べ続けさせるのはいけないこと
相反する思いが交差することで、身体拘束しなければいけない事態が生じることになります。
ここにあるのは、「人の命」と「人の思い」どっちが大切なの?という究極の天秤なんです。
これを決められるのは、他人ではない本人そのものです。重度の認知症の方や寝たきりの方には
それを決めることができないため、家族の思いが優先させることになるのですが、余命が短い方で、家族の希望として延命を望まないというケースがあります。
これは、「本人ならそう選択するはず」という、本人への思いを尊重しているからなんですよね。
認知症の方で足の骨を折ったので手術、点滴、ギブス固定という治療になる方がいます。
治療のためにこの場合は身体拘束をします。治療の為ですよね。
骨折はしたけれど、本人だってあるき歩きたいですし、家族だってまだ元気な母が見たいと思っているとしたら、それはこれから先の豊かな余生を送ってほしいという思いを大切にするために、身体拘束を短期間だけど行うということになります。
いずれも、本人の思いに沿って物事を考えるというのが身体拘束、高齢者虐待を防ぐ環境作りの柱、根っこの部分にあると言えます。
近い将来誰もが家族介護、施設介護と何かしらの形で誰かの介護に携わらなければいけない社会は目前に迫っています。
こういった課題にぶつかることは間違いなく皆さんにはあるでしょう。
そんな時にこういう考え方になれるよう、本人の思いを基本に考えられるように生きて頂ければ、と思います。
周囲の方からそういった相談等もあるかもしれません。
そんな時にも、「本人の思いはどこにあるの?」と諭すことができる人間になってください。
介護事業本部 高橋