ニッケ一宮介護村 「研修会~高齢者虐待~」

今回の研修は、「高齢者虐待」という重いテーマです。
虐待の定義から、なぜ虐待をしてしまうのか?それを無くすためにはという答えのないテーマについて、グループディスカッション~発表という熱い時間でした。

虐待の定義、通報義務という介護従事者としての常識も学び、それを得たとしてそれをどう活かすか。
「虐待と思われるケースを介護従事者として目撃した場合」は我々は行政に通報する義務がある。
では「思われる、思わしき」というケースとは?

普段関わりのあるご利用者の家庭、もしくは同僚の振る舞いがはたからみて、「これって放置でしょ?」とか、「これって、言葉の暴力でしょ?」と思ってしまうケースがあったとしたら、通報義務に従って行政にその都度報告するということになります。
ただ「悪意のある虐待」ならなんの抵抗もなくそれによって、虐待からその方を救うことになる救済行為になりますが、「その行いをしている人にとっては普通」という場合があります。

その介護者、家族にとってはその言葉づかい、対応が常識だとなっている場合です。
私達からみれば、おじいさんを恫喝しているようにしかみえない親子関係でも、それが日常的な会話だとしたら…。
私達からみれば、「それは身体拘束でしょ?」と思えることでも、未熟な介護職員にとっては「安全を優先したこと」だとしたら?
それが虐待だということを知らなかったとしたら…。
だけど、それでも「虐待」の定義になってしまうことは事実。それは「無知から生まれる虐待」なのです。
悪意のある虐待には、行政を通じての施設入所や家族からの一時的な避難措置という対応になるでしょう。
しかしそうでない、「無知から生まれる虐待」に関しては、なすすべがないのか?

そうではなく、いろんな人がそのケースに関わることで情報を共有して、その人がそういう状況であるということ。
そういう無知が生んだ虐待にあっていること。
実際に介護をする人も「無知」であることを知るべき。
それは「無知」=悪であって…。(悪意のある虐待は別ですよ)

だから、行政の強制執行、行政命令だけがその人を虐待から救うわけではないのです。
無知による虐待を受けている方を救うのは、「いろんな人の関わり」や「教育」だと思うのです。
介護の「かの字」も知らない家族から介護を受ける方もかわいそう。その家族も苦痛かも…。
「すべてを正義のもとに虐待行為を断罪」ということだけが解決ではないのですよね。

だって、「あなた、それ虐待ですよ?」と指摘されたとして、どんな気持ちになるでしょうか?
場合によっては、「悪意のない、無知が生んだ、結果的な虐待」であったとすれば、被害にあっている高齢者を救うことはもちろん、無知な介護者すらも包み込むことも同時に行うべきなんです。
それは行政だけではできませんよね?日頃からその方と付き合いの長い介護職員や、関係者たちが一致団結して経過をみていくことをしないと。
「行政に報告した、それでお役目御免」ではないんです。
むしろ、そこからが虐待に対する援助、救済のスタートなのではないでしょうか?

介護事業本部 高橋

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