ニッケ一宮介護村 「介護村勉強会」

今回の勉強会のテーマは、「看取り」についての勉強会でした。
表題は、「看取りと見殺しの違い」。
介護施設での「死」は避けられない出来事。ケアによって、「死」は看取りにもなり、見殺しにもなるという深いテーマです。
これは人それぞれの死生観に触れることにもなります。参加者それぞれが考える、「死ぬこと」とは?
職員それぞれからいろいろな考え方が挙がってきました。

「死とはどうなることなのか?」
・悲しくなること
・骨になること、土になること
・仏になること
・残された人の思い出となること
・楽になること
・しがらみがなくなること
本当にいろいろな捉え方がありますが、共通して言えることは「死んだとして、無になるわけではない」ということでした。
無くなるとしても、それは肉体の滅びであり、魂は存在している、肉体というこの世とのかかわりから解き放たれること…。深いですね。
こういった考えを抱きながら、今回はロールプレイを行っています。
これは究極のなりきり芝居。シチュエーションも自分達で考え、「とある家庭、家族」に死期が近づいた人物を取り巻く物語。
死に向かう人物に向けて、通常の「死」を迎える場合と、「望むべき」姿での死を迎える場合を想定したものでした。
施設入居で、余命わずか、ひょっとするとお風呂に入ることですらお亡くなりになる可能性がある、それでもお風呂に入りたいという本人の想いと、入れてあげたい家族の機微のロールプレイです。
介護付き有料老人ホーム ニッケあすも一宮での、とある場面がここでは克明に描かれています。
「安全を優先させて、最後の日の入浴を中止、清拭にした場合」
「本人の気持ちを優先、万全を尽くして入浴をしていただいた場合」
なりきった職員は、実際にその方になったかのような、落胆だったり、嬉しさ、満足という気持ちが宿った演技を披露してくれました。
人生の最期は、その人らしく、望むことをエピローグとして迎えたいというのが誰の目から見ても明らかでした。
この考えが根底にあって、「看取り」ということになるのでしょうか。
このロールプレイは実話であることを聞いて私は嬉しく思いましたね…。
関係者が、本人の望むこと、家族の望むことについて一丸となってそれを叶えようと知識や判断力をその場、その時に集中させるのですから…。
ただ、これは、きちんとその方がまだ元気である段階で、その方やご家族が、ご自身の最期をどういう形を望んでいるのかということを関係者が情報として掴んでおかない限り実現はできません。
「確固たる本人の意思」がないと、こういう場面になった場合、本人の思いはどんなんだった?ということになり、それはブレてしまいます。
それがどんなケースであっても、どんな職員が当事者になってもできるということでないと、それは実現できませんね。
これが今回のロールプレイを終えてから生まれた新たな課題でした。
また、こういった考え方を具現化するには、手段として確かな介護技術ということも必要不可欠になります。
私達に足りないことはいっぱいある。教育を充実させて、体系を立てていく中で自分たちに足りない分野というものがわかってきました。

冒頭に述べた、「死とはどういうことか?」という死生観について、講師の方が甚目寺の施設でお話しした際、その施設での研修にたまたま居合わせた、重度の認知症の方がはっきりとこうおっしゃったそうです。
「死ぬ時は、わが子が誰に対しても胸を張って、この人はこういう生き方をした人だったと言えるような死に方がいいと…。
生きること、死ぬことは常に同時進行。生きることは生き様、死に様にも生き様を見ることなのでしょう。
いい生き方といい死に方も表裏一体ということを、この方はおっしゃっているのかな…。

介護事業本部  高橋

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